2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まって、もう1年半が経とうとしています。
日本でも毎日報道されますが、どこか遠くの世界の出来事だと感じる日本人も多いのではないでしょうか?
このブログを運営しているぼくも、ウクライナへの募金やクラウドファンディングで微力ながら支援はしました。しかし、まわりにウクライナ人の友人がいるわけではありません。
だから、遠くの世界のように感じていたのですが、ちょうど海外で知り合った友人の板野雅由さんがウクライナへの復興支援住宅に携わっていると知ったので、この度インタビューをさせてもらいました。
話を聞いてみると、板野さんは日本で働きながらウクライナの被害と戦争と向き合って、復興住宅の支援をされています。
一人の日本人を通じて見た今のウクライナの話を聞くと、ウクライナへの関心が何十倍も高まる生の声が伝わってきました。
では、インタビューをどうぞ。
板野さんがウクライナの住宅復興に携わることになったキッカケと戦時下のウクライナの現状
右側4番目がウクライナに訪れた時の板野雅由氏
――お名前と年齢、現在の勤務先と職業を教えてください。
板野雅由。1981年、岡山県生まれです。不動産事業を手掛けるウクライナ法人のU Gate LLC代表取締役を務めています。ウクライナをはじめ、タイ・ラオス・モンゴルなどで不動産開発を手がけてきました。
――板野雅由さんは現在はウクライナ関連の復興事業を手がけていますね。今回はそこを掘り下げて聞かせてください。板野さんはウクライナ戦争前にどのようなビジネスをウクライナでされていましたか?
ウクライナの⾸都キーウ市でアパートの開発事業です。
8階建のアパートの使われていなかった部屋を買い取り、間取り変更等の内装工事を行い、販売しました。
ウクライナでは、一部屋300㎡など間取りの広い物件も多いんです。だから、部屋を分割した後に内装工事を行い、現在は賃貸や建物の管理も行っています。
――なるほど。今は戦争中ですが、被害状況はどれほどだったのでしょうか?
アパートは今も無事にキーウにあります。大きなダメージはなかったのですが、2022年12月31日の大晦日に一部被害を受けました。近隣に爆弾が落ちて、うちの建物もその衝撃波で玄関の窓ガラスが割れました。
けれども、極めて軽微な損傷だったので、すでに修理済みです。
――ウクライナ戦争が起きた時に受けた影響と心境はどうでしたか?
当然驚きましたね。戦争が起こるという想定はしてたんですけど、まさか実際にロシアが攻め込むことまでは私も想像してなかったです。
一部の取引先は侵攻前に国外へ退避していましたが、現地でも侵攻はないと考えていたウクライナ人も多かったので、ロシアの侵攻には驚きました。
建物や事業の事も気になりましたが、侵攻当時は通信環境が悪く連絡が途絶えたスタッフもおり、非常に心配しました。
――板野さんがウクライナの復興住宅に携わろうと思ったキッカケはなんですか?
キッカケは私と仲間が2017年からウクライナで不動産事業を手掛けていて、そこでウクライナの人たちとつながったことが大きいです。スタッフの中には、親族の自宅が全壊した者や、500km離れたリヴィウへ避難した者もいました。
私たちは物資が困窮している状況や建物などの被害状況をスタッフから送られてくる写真や動画で確認していたんで、日本のノウハウを使って、ウクライナの仲間のために何かできないかなと思ったんです。
加えて、ウクライナの建物を設計した建築士が福島出身で、東日本大震災を経験していたんです。彼は復興に関するノウハウを持っていました。
早期に動き出す大事さを知っていたので、我々はいち早く復興住宅に携わろうと動きました。
ウクライナの戦争前の復興中の住宅市場動向
戦争前のウクライナ首都キーウの街並み
――では戦争前のウクライナの住宅はどんな感じだったのでしょうか?
そうですね。首都キーウの都心部はやはり古い建物が多くあります。いわゆるソ連時代から残る建物ですね。
コンクリート造りの建物が多くて、少し中心部から外れたところに行くと、高層ビルが立ち並んでいます。キーウの町並みは本当にヨーロッパ風で、たとえば古い建物を修復して100年以上使う文化があります。
――美しそうな街並みですね。これがウクライナ戦争の影響の被害はどんな影響を受けたんですか?
首都キーウに関しては、中心部よりも郊外のほうが被害が大きいですね。
当たり前ですけど、不動産投資も外国人の購入も戦争前に比べて格段に減りました。
――ウクライナ戦争で不動産投資という状況ではなく、復興や応援というフェーズになったということでしょうか?
そうですね。不動産取引自体の数は大きく減っています。ただ、私たちが今管理している建物について言えば、実際には戦争前よりも入居者が増えています。
――ええ?それはなぜなんですか?
私たちが所有しているのはキーウの中心部にある物件で、戦争前の平時にはITプログラマーや外国人留学生を主な入居者のターゲットにしていました。
当然、今は外国人留学生はほぼいないんですけど、ウクライナ人のITプログラマーの入居者が増えているんです。戦争被害の大きいウクライナ東部に住んでいた方が、中央のキーウに逃げてきて、私たちの管理している物件に住んでる状態になっています。
――なるほど。ウクライナ戦争と言っても、細かく物件ごとに見ていくと状況が違うんですね。
では、ウクライナ国内の全体で言うと、どんな感じなんでしょうか?事前にいただいた資料には、『国民の4分の1が自宅を離れ、国民の約半数が避難中 』という情報がありました。
そうですね。やはり特にウクライナ東部において、戦争被害で建物を失った家族はたくさんいらっしゃいます。そういう方は、戦場になっている東側から西に逃げたり、戦争当初はウクライナ国外に逃げる避難生活をされていました。
キーウ近郊の地方都市の様子
2023年6月現在は、ウクライナ国外よりも国内で避難して生活する人が多いですね。
ただし、被害の大きかったウクライナ東部出身の人々の中には、いまだに地元に戻れない人が多いです。
――だから、いま避難住宅や建物が必要なんでしょうか?
ウクライナでは避難民に対して住居は提供されていますが、たいていは寮のような集団生活が主で、プライベートスペースが限られたところが多いんです。
たとえば、プレハブのような建物を使って、共有のキッチンやシャワースペースがある避難施設がほとんどですね。プレハブ住宅は断熱性が低いため、夏は熱くて冬は凍えるほど寒いというデメリットがあります。
ウクライナ戦争中に日本の企業側がウクライナに避難住宅を作って提供する戦略と大変さ
板野さんたちがウクライナで作っている復興住宅
――板野さんたちはウクライナでどんな避難住宅を作ったんですか?
いわゆる移動が可能な住宅の建設をしています。
住宅の中は、生活に必要なキッチンやトイレ、シャワー、家具を完備してて、そのままプライベートスペースのある住宅として住んでもらえます。
ウクライナの寒い冬にも耐えられるように、マイナス20度でも大丈夫なように設計しました。
また、移動も可能なので、戦争が終わった後も利用可能です。
たとえば、ウクライナの西部の避難地では避難住宅として住んでもらい、戦争が終わったら東部の故郷に持って帰ってもらい、住宅や倉庫として使ってもらうこともできます。
――すごいですね。では、「板野さんたちがウクライナで復興住宅を作るためにどうしたのか」という戦略を聞かせてもらえますか?
実際に今も戦争している国で復興住宅を作るのは大変です。どういう苦労があったんですか?
まず、我々にはすでにウクライナ国内にウクライナ人の仲間がいました。2017年から不動産プロジェクトで一緒に仕事をした仲間です。
ウクライナにいる現地のパートナーの一人
仲間がウクライナにいるので、建築チームのメンバーが材料の調達を手配し、ウクライナ国内の建築資材を加工する工場で組み立てを行います。
ウクライナの復興住宅組み立て工場
復興住宅は工場で部品を作り、現地で組み立てるという形態を取っています。工場で事前に作った部品を現地で組み立てることにより、建築期間を大幅に短縮することができます。
作業員が慣れてくると、内装工事を含めて、最短5日間で完成させることも可能です。
――手がける上で困難だった点や、困難をどう乗り越えたのかを具体的に教えてもらえますか?
戦争中のウクライナになかなか行けないので、日本企業のチームとウクライナのチームのやりとりは全部オンラインでした。なので、やはりコミュニケーション面でのやりづらさはありましたね。
日本とウクライナでは、一つの打ち合わせをするにも、時間を設定してやらないといけません。
※日本とウクライナの時差は5-6時間(サマータイムによって変動)
建築面では、日本人の私たちが建材の素材感を確認できない難しさもあります。
ウクライナ戦争前の建築はウクライナの工事の現場に行って確認してたんですけど、今回はそれができないんです。
戦争前から一緒にウクライナのアパートの内装を作ってきたウクライナ人仲間には、我々のノウハウや求める基準が伝わっているので対応してもらえます。
でも、戦時下でつながった新しいウクライナの取引先とは、目指している住宅の完成イメージや素材感、こだわっている点などの意思の伝達が難しいと感じています。
あとは材料の調達ですね。ウクライナは日本ほどいろんな建材が充実してるわけではありません。
実際に私も2022年9月にウクライナの現地に渡航して、仲間といろんなウクライナ国内の工場を見たりして、材料調達の調整をしました。
――どれくらい日本と戦時下のウクライナでは材料調達の難しさが違うんですか?
たとえば、復興住宅の建物の中に入れる浴室は、日本だとユニットバスがすぐ手に入ります。
でも、日本以外でユニットバスはほとんど存在しません。だから、ウクライナで手に入る部品を組み合わせてユニットバスに代わるものを作りました。浴室は特に苦労しましたね。
――他に何かウクライナで復興住宅を作る上で苦労はありましたか?
これは戦争している国ならではの状況なんですけど、工場で復興住宅の組み立て作業している人が徴兵されたことでしょうか。
複数の人員がほぼ同時期に引き抜かれたために、最短5日間で作れる予定だった工期が2週間くらいになりましたね。
私が2022年にウクライナの現地で会った工場のメンバーも、その後に戦争の兵士として従事することになりました
復興住宅事業で働いているウクライナの男性は、国のために良いことをしているとはいえ、戦争の徴兵命令が来たら行かざるを得ません。
徴兵による人手不足で復興住宅の工期が遅れるのも大変ですが、一緒にプロジェクトを進めるウクライナ人の仲間が戦場に行くのは、気持ちの面でも非常に辛いです。
――それは本当にニュースでは伝わってこない辛い現実ですね……。
――復興住宅の入居者の募集はどうやって決められたんですか?
避難民の方々の境遇を見ながら、ウクライナ現地の行政機関と慈善団体に入居候補者を選定してもらいました。最初に作った2戸の復興住宅は、150人近くの応募があったんです。
日本側の我々に入居候補者の確認依頼が来るんですが、私たちはウクライナにいないので、一人ひとりとお会いすることができません。
だから、入居者の決定はウクライナ側にゆだねています。
ただ、入居候補者が現地の言葉で書かれた手紙が添えられていたので、ウクライナ人のスタッフが訳してくれたものを日本側の私たちも読んでいきました。
自宅が戦争で全壊しました。戦争の被害によって子供が視力を失いました。旦那さんが防衛隊に出て亡くなりました……。
生の戦争の悲惨な状況を伝える手紙もあって、そういった手紙を読むと、私たちとしても本当に辛いですね。特にウクライナ側の仲間には辛い作業だったと思います。
本当に戦争が早く終わってほしいです。
――すごい……。言葉にならないくらい辛いウクライナ戦争の現実を、日本にいる板野さんは復興住宅の支援で向き合っているんですね。
――復興住宅の支援用の土地も確保したのですか?
はい、ウクライナ西部のチェルニフツィー州内にある自治体と協定を結んで、覚書を締結しました。この土地に仮設住宅を置いてもいいという許可をもらって、今進めています。今契約している敷地には、130棟ぐらい設置が可能です。
今はまだ4棟だけですが、これを10棟、20戸へと拡大していく予定です。
ウクライナのチェルニウツィー州で確保された土地
――この住宅は寄付という形で作られたのですか?
そうですね。今回は私たちだけでなく、クラウドファンディングで日本国内で寄付を募って、寄付という形で提供しました。
私たちは住宅を無料で2年間提供するようにウクライナ国内の慈善財団と調整しています。希望があれば、2年後にこの復興住宅を購入することも可能です。
――素晴らしいですね。
日本人が設計した復興住宅で住み始めたウクライナの避難民の反応
――避難民の方々が住み始めてから、どのような反応がありましたか?
板野さんは戦争中にもウクライナ現地に行ったと思うのですが、復興住宅に住んだ人の生の様子を聞かせてもらえると嬉しいです。
避難民の方々は、以前共同住宅のようなところに住んでいたので、一世帯ごとに家が提供されることに非常に感謝されました。
復興住宅入居者のウクライナ人と。右から1番目が板野雅由氏
たとえば、旦那さんが戦争で亡くなった母子家庭の方も住んでいます。クリスマスのときには飾り付けをして楽しんでいました。
復興住宅の入居者のウクライナ人と。左から1番目が板野雅由氏
他にも復興住宅に住んだ人の中に、60代くらいのウクライナ人のおばあさんがいらっしゃったのですが、彼女から私は熱烈なハグをいただきました(笑)
――海外ならではの情熱のあるコミュニケーションの方法ですね(笑)本当におばあちゃんにとって、嬉しかったことが伝わってきました。安全に生活できてよかったですね。
そうですね、安全で、電気や水道も整っています。だから、何とか暮らせるということで、皆さんに喜んでいただいています。
また、このプロジェクトは私たちだけでなく、日本から寄付をくれた多くの人々のおかげで進められたものです。
日本という遠く離れた国の方々がウクライナに興味を持って、寄付や建物を作ってくれたことに対して、ウクライナの現地の方々からすごく感謝の言葉をいただきましたね。
復興住宅に住んでいる方々だけではなく、その町の議会や州の議会、日本の在日ウクライナ大使館の大使からも感謝のコメントをいただいています。
――すごいですね!復興住宅のクラウドファンディングを支援してよかった思える人はたくさんいるのではないでしょうか。
板野雅由さんの今後のウクライナ復興住宅支援とは?
――これから板野雅由さんたちのウクライナでどのような住宅復興支援の取り組み予定がありますか?
今は4世帯、11人のウクライナ人が住んでいますが、直近では新たに10世帯を建設予定です。全体では40から50人が住むことができると思います。
――なるほど。さらに長期的なプロジェクトはありますか?
具体的な数値はまだですが、我々としては100、200世帯と進めていきたいと思っています。しかし全てを寄付で行うことは不可能です。良質な復興住宅を安価に提供し、地元の人々に購入してもらう形を目指しています。
――それは大きな目標ですね。
そうですね。私たちは住宅不足が深刻な今のウクライナに、日本の技術で復興住宅を作って、貢献できるように進めていきたいと思っています。
それは私だけではなく、福島出身で震災を経験した仲間の建築士も言ってることです。
2022年のウクライナ渡航の板野雅由氏(左から3番目)福島出身の建築士仲間(左から2番目)
東日本大震災の後に建物が多く破壊されて、住む人たちの家がなくなり、物資も足りない状況で住宅の復興を進めていったそうです。
東日本大震災の復興局面では、建材が入らなかったり、労働力が不足するという別の課題に直面したそうなんですね。
もし、ウクライナ戦争が終わった後の復興は、同じような状況になってくることが予想されます。
我々が戦時下のウクライナに先に入っているのは、ウクライナ人のパートナーや取引先との関係を高めておくことが目的です。
今はまだ小規模なんですけど、ウクライナ戦争後にウクライナの復興が少しでも早くなるようにと思って、この復興住宅プロジェクトを進めています。
――ありがとうございます。そのようなビジョンの下に、板野雅由さんたちはプロジェクトを進めているんですね。
――他に板野さんがウクライナのために何かやりたいことはありますか?
もう一つのアイディアとしてはまだ仮の段階なんですけど、戦争で大きなダメージを受けたウクライナの市町村に、日本の道の駅を導入したいと考えています。
特に戦争の被害の大きいウクライナ東部に日本の道の駅を持って行きたいんです。
ウクライナは日本と同じで、州ごとにいろんな特産品があるんですよ。でもそれらが十分に知られていないと感じています。
大きな幹線道路沿いに特産品を買える場所を作り、飲食できる場所やガソリンスタンドも設けたいと思っています。
ウクライナは国土が広いですし、長距離ドライブをしないといけません。やっぱり復興した町に目玉を作るという意味でも、日本の道の駅はウクライナでもすごく有益だと思うんです。
だから、ウクライナで道の駅を中心にしたまちづくりも進めたいと考えています。
――すごい。ウクライナ戦争後は復興のニュースと共に、ウクライナに道の駅が広がっていくニュースが見れるかもですね。戦争終結を願うと共に、今後の板野雅由さんの活躍を楽しみにしています。
プロフィール
板野雅由(いたの まさよし)
1981年生まれ、岡山県出身。2015年よりタイのバンコクに移り住み、タイ・カンボジアなどの不動産業に6年間従事。現在は日本を拠点にしながら、ウクライナ、モンゴル、ラオス、タイ、カンボジアなどで過去に不動産事業を手掛け不動産開発をしながら、現在はウクライナへの復興支援もしている。
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