日本人に生まれた幸せ。どんなところに感じますか?
こんにちは。2015年6月に日本から台湾へ引っ越してきたまえちゃん@Maechan0502です。
さてぼくは2年前から台湾人の友達ができ、今年の6月からは台湾に住んでいるのですが、彼らと話していると日本人として生まれた幸せに何度となく気付かされてきました。
しかもそれはぼくが日本で暮らしていた時は、全く気にしなかったささいなことです。
「他の国に全然支配されなくて良かった。日本語をずっとしゃべれて良かった。戦争してこなくて良かった」
ぼくは台湾人と話していて、そんな当たり前だったはずのことを、幸せに感じてしまいます。今回はそんなぼくがこの2年半で気付いた台湾人の歴史と生活を書いてみたので、台湾をもう少し詳しく知りたい人は読んでみてください。
ではどうぞ。
他国からずっと支配されてきた国 台湾
まずぼくが台湾人と話すと、「日本が他の国から支配されてこなかった幸せ」を感じてしまいます。
なぜなら常に台湾という島は、他の国から支配されてきたからです。もちろんその歴史にはぼくらが生まれた日本も入っているのを忘れてはいけないでしょう。
400年前からオランダ人、中国の明朝から来た鄭成功。その後の清朝と続き、日清戦争後は1895年から1945年まで日本の統治下に。そして戦後は中国大陸から来た中国国民党が統治しました。
台湾生まれの台湾人がトップを取ったことなんて、1988年に就いた李登輝元総統と、その後の陳水扁元総統しかありません。
そしてようやく台湾人が治めていると思ったら、香港生まれの馬英九総統が「今度は中華人民共和国一緒になるんじゃないか?」と疑わざるを得ないトップ会談を2015年11月にシンガポールでやっています。
だから台湾人を見ていると、「いかに自国以外でも生きていくか?」というのが、もう宿命なんだと感じました。
たとえば80歳以上の台湾人の方と話していても、しょっちゅう「息子や娘がアメリカや日本にいる」という近況が出てくるし、同じく金銭的に豊かな20代の台湾人の友達も日本やヨーロッパに留学しています。
そう、ぼくには台湾人が「もし台湾が中国の一部になった時は、外国で生きていける準備」をしているように見えます。
日本では「いい高校、いい大学、いい会社に入って定年まで勤め上げる」というレールに敷かれた理想が今でもありますが、それは根本的に「日本がほかの国の一部にならない前提」があるからこそ考えられるんでしょう。
話す言葉が親子三代で変わってしまう
次にぼくの常識が崩れたのは、おじいちゃん、おばあちゃんと同じ言語で話せるのは恵まれているという事実です。
「自分のおばあちゃんは日本語と台湾語が話せるのに、孫の自分は中国語しか話せない」
ぼくはそんな20代の台湾人の友達と出会って、同じ国なのに共通言語で話せない人もいることを知りました。
そう、ぼくは日本にいた時は自分のじいちゃんばあちゃんと同じ言葉で会話ができることが当たり前だと思っていたのですが、台湾人と出会ってからそんな自分の当たり前が当たり前でないことに気付かされたのです。
これはぼくらが生まれた国の日本もかかわったことなのですが、そもそも1945年まで台湾は日本の統治下にありました。だから当時の台湾の公学校という小学校にあたる場所では、台湾語と日本語が教えられていたんです。
しかし戦後、蒋介石率いる中国国民党が中国からやってきたことで、一気に国の第一言語が中国語に変わります。
学校や公共の場では日本語を中心に話していたのに、それがガラッと中国語しか話せなくなる。しかも自分たちが日常的に使っている台湾語は、120年間以上公共の場で第一言語にならない。
そして今の20代以下の人は「台湾語は難しいから、聞けばわかるけど、話すことはできない」という台湾人が増えています。
これを極端な例を出して沖縄で例えると、戦前までは日本語を話していたのに、戦後はアメリカに統治されて英語しか話すことができずに、家庭内でしか沖縄の方言を使うことができない。
そしていつしか若者は英語しかしゃべれなくなって、日本語と沖縄の方言しか話せない老齢世代と交流できなくなるという状況に似ています。
日本で聞けば「ありえないだろ!」と思うかもしれないけど、歴史の政策や選択肢が違えば、日本も充分なっていたかもしれません。
だからぼくは台湾人と交流していると、「本当にぼくは日本人に生まれて運がよかった」と感じてしまいます。それがいいとか、悪いかは言うつもりはないですけど、強烈に日本人が恵まれていることは感じてしまいます。
中国との戦争の準備するために、国の成長が遅れた
最後にぼくが台湾で感じるのは、戦後の日本が軍事国家にならなかった運の良さです。ぼくもまさか自分が戦争や軍事について考えるとは思わなかったのですが、台湾と日本を比べると軍事問題に行き着いてしまいました。
例を出しましょう。台湾に住んでいると、あきらかに日本より開発が遅れていることに気付きます。それは街の古い建物を見てもそうだし、地下鉄1つとってもそうです。
台湾人から話を聞いてみると、台北市内を走る地下鉄のMRTもどうやら1996年に開通したらしく、ぼくは思わず(……日本に比べて、何十年遅れているんだ?)と台北で生活して驚きました。
でも台湾の歴史をさかのぼると、台湾の経済発展が遅れたのは、中国大陸と戦争する準備をしていたからだということがわかります。
第二次世界大戦後に、日本に勝った中国は中国大陸で内戦を起こしました。蒋介石率いる中国国民党は、毛沢東率いる中国共産党が「どっちが中国を統治するか?」という理由で内戦したのです。(いわゆる第二次国共内戦)
結局その争いに破れた蒋介石率いる中国国民党側は、1945年まで日本の統治下にあった台湾に流れてきました。しかしあきらめきれなかった蒋介石は「反抗大陸」のスローガンを掲げ、中国と戦争する軍事費にお金を投じたのです。
この間に38年間も軍事戒厳令が敷かれ、「戦争する時に標的になるから5階以上の高層ビルも建てるな!」という政府の禁止もあり、台湾は1980年代まで高層ビルがありませんでした。
しかし日本は逆です。「日本がソ連や中国みたいに共産主義国家になったら、アメリカが大変になる!だから守ってやるから、オマエの国は経済成長に集中しろ」という理由で、世界第2位の経済大国になったのです。
ぼくは台湾で暮らしていて「あー、日本だったらもっと綺麗なのに。もっと便利なのに……」という不満を感じてきました。しかしそれは日本が国の軍事費にお金をかけなくよかったおかげだったんです。
もちろん戦後にぼくらのじいちゃん、お父さん世代の日本人が「働きまくって頑張った」という理由もあるんでしょう。
しかしぼくは台湾に住んで感じた台湾の建物を古くてきたないと思う理由は、突き詰めれば「台湾が中国との戦争の準備をしてきたから遅れた」のが大きな1つの原因だと感じてしまいます。
振り返って 日本の当たり前は台湾では貴重なこと
さてどうでしょうか?ぼくは台湾に住んでいるのですが、最近になって「どうして日本と台湾は本当にここまで違ったのか?」という思いを強く持ち始めています。
ぼくは日本という国に生まれました。そしてぼくの生まれた国は1945年に敗戦しましたが、その後70年間で世界第2位の経済大国まで上り詰め、その国の中でぼくは当たり前だと思った恵まれた暮らしをしてきました。
しかし台湾という島に生まれた人たちは、それまで日本という国だったのに、1945年以降に中国からやってきた中華民国という国になります。その後に言葉が変わり、20年くらい経済が全然成長せず、そしてまた今度は中華人民共和国という国に飲み込まれようとしています。
この差は何なんだろう?
ぼくが日本にいた時に考えてもみなかった当たり前は、台湾で当てはめて考えてみると、とても恵まれたことばかりでした。
そして日本人から見ると理不尽な国に生まれながら、それでも深刻に落ち込まずに、笑いながら生活していています。
本当は陰で悩んだり、ガーガー文句言いながら暮らしているのかもしれないけど、ぼくはそれでも明るい台湾人から学ぶことはたくさんあると感じています。
最初の台湾旅行に来たら、シリアスにこんな見方をしなくてもいいです。でも慣れてきたら一歩踏み込んで、台湾という国の奥深い顔を知ってほしいと思っています。
ではまた。
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