台湾の桃園市は何もないんじゃない。実は台湾を小さく詰めた場所だった【PRツアー中編】


前回までのあらすじ。

「台湾の桃園市は日本の千葉県のように観光スポットなんて何もない」と思っていた台湾ブロガーのぼく。

しかし桃園市のツアーでよく出会う台湾人(ホーロー人)だけでなく、客家人や台湾原住民と出会うにつれて、

「実は桃園市は、台湾にやってきた人たちのルーツが詰まっている、小さな台湾じゃないか?」

と感じるようになります。

しかし2日目にぼくがまわったのは、戦後に中国からやって来た人たちが作った防空壕や日本人が残した建築、44年前に中国からやってきた人が開いたレストランでした。

「え?これは果たして桃園市の台湾人らしい観光名所なんだろうか?」

そんな疑問を隠せない日本人のぼく。

だけど、これこそが台湾人の考える台湾が詰まっていると、ぼくは逆に教えられていったのです。

いつから、台湾に住めば、台湾人になるのか?そして台湾人とは、いったい誰なのか?

桃園には、台湾人のルーツだけでなく、日本人が想像できない「台湾人」を知る旅が詰まっていました。

ではどうぞ。

2日目の朝 拉拉山民宿 福緣山莊(フーヤンツーリストホーム)

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桃園ツアーの2日目の朝は、2代目オーナー客家人のブライアンの案内で、民宿の周りを回ることから始まりした。

前日は暗すぎて見えなかった民宿のまわりでしたが、日の出ているときに回ると自然に囲まれていたことがわかります。

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山の渓谷のなかにあるブライアンの民宿。

一見、こんな山の風景は日本にもあるようですが、一つだけ明確に違うものがありました。

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それが彼の民宿の近くにあった原住民が描かれた看板です。

この山の上に住んでいて、お祭りなどがあると彼らは民宿近くのこの広場に降りてくるそうです。

日本にも山は無数にありますが、台湾の山は暮らしている原住民の文化が根付いているのが、最大の違いなんでしょう。

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この後に拉拉山で見かけた観光案内板に「白面鼯鼠(カオジロムササビ)」という動物がいたんですけど、ブライアンはこれを見てこう説明してくれました。

「原住民はこれを取って食べるんですよ!夜に銃の音がすると、これを取ってます」

「あとぼくの原住民の友達はお腹を壊すと、ムササビの落し物(う◯こ)をしょうゆ付けて食べるんですよね。それが彼らの治療法らしいです!」

そう言って、度肝を抜くような説明をしてくれたブライアン。

さすが日本の山を訪れても、こんな全く違う文化を持った人々はいません。

台湾の山に数千年住み、そこで育んだ文化を、空港のある市の山奥で知ることができる。

ぼくも全然予想しませんでしたが、そこが桃園の一つの魅力なのかもしれません。

桃狩り

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台湾を旅行して桃園空港を利用する人は、「桃園市には全然桃がないのに、なぜ桃園というんだ!?」と疑問に感じていた人は多いんじゃないんでしょうか?

ぼくもその1人で、5年間くらい台湾と関わってきたのに、桃園にはまったく桃のイメージがないのが不思議でした。

しかし、この桃園の復興区という地域まで来ると、ようやく桃が取れるのです!

その事実をぼくはようやく桃園市のツアーで知ることができました。

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朝、民宿で朝食をとると、ぼくはブライアンに案内されて、桃園の復興区で桃を育てている夫婦の元にやってきました。

どうやら6月中旬から8月中旬の2ヶ月間は桃の季節で、ブライアンの民宿ではこの夫婦と提携して桃ツアーの案内もやっているようです。

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道路沿いを降りて、山の斜面に入っていくと、そこにはたくさんの桃がありました。

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おおっ!これぞ夢にまで見た桃です!ここにあったんですね。

一緒に同行した台湾人のリリーさんによると、台湾ではお店の販売所で桃を買うよりも、道端に出ているで店で買ったほうが新鮮で甘いと教えてくれました。

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桃園市の山奥にある復興区は原住民が人口の8〜9割を占めるんですが、残りの1〜2割はホーロー系や客家系の台湾人(漢民族)が移住しています。

漢民族の人たちが農業を持ち込んで桃を育てたり、民宿をやって、ここの農業や観光産業を支えているようです。

一瞬ぼくは台湾原住民が民宿や農業をやっていないのを残念に感じました。でもきっと漢民族が民宿や農業をやって外界の旅行者とつないでいくことこそ、台湾らしい歴史なんでしょう。

400年前の台湾原住民が住んでいた台湾島が、中国から漢民族が移住したり、農業をやって、世界へ開けていったように。

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あ、もちろんフルーツが美味しくて、住んでいる台湾人も親切心あふれて優しかったです。

都会では味わえない台湾の田舎の魅力が、ここの桃園の復興区にもありました。

拉拉山のご神木

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桃狩りが終わると、ぼくはこのあたりで一番有名な山である拉拉山に案内されました。

拉拉山は保護されている自然公園です。3キロ以内は住むの禁止されており、火も使えません。

台湾人のブライアンの話だと、北台湾で一番酸素が多く、リラックスできるスポットだと聞きました。

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拉拉山は道が整備されており、いくつもの古いヒノキを見ることができます。

一番古いヒノキは、樹齢2,800年までさかのぼれるのだそうで、ここまでくるとスマートフォンの電波も入りません。

しかもここは台湾原住民が暮らしてきた山です。

日本にも山はありますが、歴史と生活と文化の濃さは台湾の山のほうが深いので、ただ散歩するだけでなくて暮らしてきた人がいると思うと、台湾の懐の深さを考えることができました。

初日も思いましたが、桃園にはホーロー人や客家人だけでなく、原住民のルーツまで旅行して触れられるなんてすごいです。

戦備トンネル

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山奥深い拉拉山を後にして、もう一度、桃園の市街地に近づいていく。

ここまでホーロー人や客家人、原住民など、台湾を作ってきた人たちを訪ねてきました。

しかしここから先は「これが桃園の台湾らしい観光名所なの?」と首をかしげる場所ばかりめぐり始めたのです。

その一つが戦備トンネルです。

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日本語で訳すと「防空壕」なんですが、これは第二次世界大戦のものではありません。

1945年以降、中国大陸にある中華人民共和国との戦争に備えて台湾で作られました。

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歴史を振り返ると、日本が台湾を1895年から1945年までの50年間植民地支配した後、日本人は第二次世界大戦の敗戦により、台湾から引き上げます。

そしてその後に台湾を統治したのが、中国大陸から敗走してやってきた蒋介石率いる国民党です。

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第二次世界大戦で中国が日本に勝利した後、資本主義の国民党と共産主義の中国共産党は、中国人同士で内戦を始めました。

そして負けてしまった資本主義側の国民党は、日本が引き上げた台湾を拠点にしたのです。

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「反攻大陸」

いつかもう一度台湾から中国本土に攻め、自分が日本に勝った中国大陸を、中国共産党の手から取り戻す。

蒋介石は本気でそう思って、こうやって防空壕などを用意しておいたようです。

しかしそれを果たせないまま蒋介石は、1975年に台湾で亡くなります。

それ以降の台湾は現実的な経済政策に舵を切り、中国と戦争する計画をやめ、この防空壕も観光名所になりました。

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まあそんなシリアスの場所だったのですが、そこはポップな国の台湾。

トリックアートや、アーミーゆるキャラが置かれるインスタスポット防空壕として蘇りました。

きっとあの世で蒋介石もこんなふうに台湾がなっているとは、思わなかったでしょう(笑)

日本だと戦争自体が負の歴史で、つい敬遠してしまうかもしれません。

しかし桃園の人にとってとここも自分たちの観光地だし、台湾人にとっても自分たちの歴史の一部だと思っているようです。

大渓老街(ダーシーラオジエ)

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旅はいよいよ折り返しに差し掛かりました。そこでやってきたのが、大渓老街という桃園市の中でも有名な古い川辺の街です。

ここにはぼくら日本人が一番馴染みある文化がありました。

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そう、台湾にある日式建築です。

この建築は1895年から1945年までの日本統治時代にあった、小学校の校長先生の家だそうで、それを復元しました。

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これは日本庭園でもおなじみの灯篭(とうろう)です。

今は工事中ですが、灯篭の奥にはかつて神社がありました。

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復元された相撲を取る場所もありますし、かつての武道館だった場所も。

ここで戦前、日本人の警察官が稽古をし、引き上げた後は中国から来た軍人が使ったそうです。

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「おー!戦前の台湾にあった日本文化だ!」

ぼくは桃園にもこんな場所があったとは予想しておらず、すごく嬉しくなってしまいました。

しかしいつも思うのは、なぜ台湾人はこんな異国の文化を残してくれているのか?ということです。

鉄道やダム、学校教育など、日本人はいろいろと台湾に残しましたが、植民地支配なので、決して台湾人にとっていい歴史とは言えません。

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「なぜ、台湾の人は日本時代の建物を残したり、復元しているんですか?」

それを質問すると、ここを案内してくれた桃園市政府の人は言いました。

「それは後世に歴史を残すためです。あと日本人にも桃園に来て、見にきてほしいというのがあります」

蒋介石の銅像のところでもそうでしたが、「後世に歴史を残すため」と同じことを言われてしまいました。

きっとここに台湾人が考えている歴史観があるんでしょう。

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日本式建築を見終わると、ぼくらは大渓老街のメインストリートに入っていきました。

ここは家の入り口に石を掘り、動物などが描かれているのが特徴だそうです。

話を聞くと、こんな建築は台湾にしかありません。

どうやら日本の大正時代に内地留学した大渓出身の客家人が、動物に願いを込める日本建築に感銘を受けたそうです。

普通に見るだけだと綺麗に彫られた家の飾りだと思いますが、日本と台湾の密接なつながりの上で、これは生まれたようでした。

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大渓老街には上のような豆腐から水分を抜き取って固めた、豆干(ドウガン)という美味しい名物もあります。

日本とも縁が深いし、興味深い街です。

また台北の九份と違い、これから観光地化が始まったので、人が優しくてすごく面白い場所だと思いました。
 

活魚創始店石園活魚

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この日の最後は桃園の石園活魚というお店で、ぼくらは夕飯を食べました。

このレストランは中国から渡ってきた初代のオーナーが、1974年に桃園の石門ダム付近に開き、いまは三代目オーナーによって引き継がれたそうです。

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ここのお店の名物は新鮮な魚ですが、お店の看板には客家料理も食べられると書いてありました。

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なかでも老爸的魚は、このお店の娘さんが亡くなった父を思って考え出したオリジナルメニューだそうです。

見た目の濃さとは裏腹に、とてもあっさりしていてお腹に優しい味でした。

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こちらは陶板絲瓜魚片といい、骨が入っていない魚と瓜(うり)の料理です。

この料理もあっさりとした料理で、脂っこいイメージのある中華料理ですが、それを覆す健康的な美味しさでした。

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この石園活魚は、今回のガイドをしてくれた桃園出身のリリーさんのお母さんも食べるそうで、地元の人からも喜ばれるレストランです。

若い人は脂っこいがっつりした中華料理が好きだと思うんですが、40代以上の人には油控えめの薄味のレストランなので、好まれるレストランだと思います。

また個人的には、44年前に中国から来て開かれた桃園のレストランも桃園名物として紹介されことにもビックリしました。

まとめ

というわけで、どうだったでしょうか?桃園ツアーの2日目の旅行レポートは。

初日のツアーは台湾の原住民(元々住んでいた人)ホーロー人(1600年から1800年代に来た人)客家人(中国のユダヤ人)外省人(戦後直後に中国から来た人)など、いろんな時代に台湾に渡ってきた台湾人に出会ってきました。

しかし「なぜ桃園の人たちは古いものだけでなく、新しく来た人たちや異国の文化も、自分たちの桃園(台湾)の歴史だと思えるのだろう……?」

これに日本人のぼくはすごくモヤモヤしてしまいました。

原住民やホーロー人、客家人だけを取り上げてくれれば、台湾のルーツ探しに集中できるのに……。

でも日本に帰ってきてから台湾の歴史を調べると、これはぼくが2,500年間、ほぼ同じ民族でだけで歴史をもってきた(と思っている)、日本人の色眼鏡をかけていただけでした。

台湾の歴史を振り返ると、古くは原住民と漢民族、ホーロー人と客家人、台湾人と日本人、そして中国からやってきた外省人と前から住んでいた台湾人との争いが絶えなかったのです。

ぼくはルーツにこだわっていましたが、過去をたどると「誰が台湾の本当の持ち主なのか?」という争いが絶えません。

そこで台湾の総統だった李登輝さんが今から20年前に発表した、「新台湾人とは何か?」という政府公式発表を知り、なぜ台湾人がいろんな人のルーツや文化をに答えがあると思ったのです。

 
台湾発展の歴史的過程を回顧すれば、もちろん渡来した時期が先であれ後であれ、すべての人々が台湾の発展に等しく顕著な貢献をしてきております。

〜中略〜

本日、この土地で共に成長し、生きてきたわれわれは、先住民はもちろん、数百年前あるいは数十年前に来たかを問わず、すべてが台湾人であり、同時にすべてが台湾の真の主人なのです。

われわれはこれまで、台湾の発展に栄えある貢献をしてきましたが、同時に将来における台湾の前途に共同責任を負っています。

〜中略〜

台湾のさらなる発展を切り開いていくかは、われわれ一人ひとりが「新台湾人」としての、他に転嫁できない使命であります。

《台北『中央日報』98年10月25日》

いつ台湾に来たのかが問題じゃない。

この地で起きたこと、そのすべてが自分たちの歴史であり、この地で台湾の未来のために進んでいく人たちこそ、新しい台湾人であると。

これこそ過去と同じ民族にこだわる日本人と、多民族で共存に悩まされ続けた台湾人が出した結論の違いだったのです。

そう考えると、桃園にある日本人の残したまちづくりも、防空壕も、44年前に来たレストランも全部台湾だと納得いきます。

たった2日だけど、桃園には多くのことを教えられた気がしました。

そして3日目。桃園市役所で市政府の人から話を聞くと、実はこれからの日本の未来じゃないか?と思う話に遭遇しました。

前編と後編でまとめるつもりでしたが、3日目が残ったので、それを伝えたいと思います。

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