「台湾を旅行してきたけど、日本に似てた」とか、「なんか台湾って近いから行く気起きないんだよね」ってイメージ、持っていませんか?
こんにちは。そろそろ台湾に住んで1年半のまえちゃん@Maechan0502です。
さて台湾好きのぼくとしては、台湾のそんな感想を聞くと悲しくなるんですが、否定できないのも事実です。
たしかに台湾は日本の沖縄の隣だから、せっかく海外に行くなら遠くの国を選びたいのもわかります。実際に台湾に来たら高いビルと日本のチェーン店ばかりだから、日本と似ているもうなずきましょう。
むしろ自分でも3年前は台湾人の友達に「台湾って日本に似てるね!」と言ってたので、ぼくも胸張って他人に「わかってないな」と言えない人間です。
しかしこんな話を知ったらどうでしょうか?
1895年から1945年まで台湾は日本の領土であり、当時台湾で生まれた日本人は、異国になってしまった故郷・台湾に今でも帰りたがっていると知ったら?
そう、湾生と呼ばれる70〜90代のお年寄りにとっては今の台湾は、「自分の生まれた頃と一変してしまった異国」であり、「こんなに日本から近いのに、国が変わってしまったから住めずに通うしかない故郷」なのです。
そんな目の覚める台湾への見方をぼくらに教えてくれる映画『湾生回家 (わんせいかいか)』が先週の11月12日から日本でも公開されたので、今回はこの映画を紹介したいと思います。
もうぜひ劇場で号泣してしまう素晴らしいドキュメンタリーなので、台湾好きの方も、台湾にそれほど興味ない人も見ていただきたい。この映画を台湾で2度、そして日本で1度の合計3度見たぼくは心の底から勧めさせてほしいです。
ではどうぞ。
かつて台湾で生まれた日本人がたどる故郷・「台湾」
この映画・『湾生回家』はとても不思議なシーンから始まります。日本人のおじいさんが外国のはずの台湾の花蓮で、道行く台湾人に「私の幼馴染を知りませんか?」と声を掛けるのです。
日本人なのに、なぜこの人は台湾に幼馴染がいるんだろう?見る者はいきなり引き込まれます。しかしこのおじいさんの富永勝さんこそ、湾生と呼ばれる台湾で生まれた日本人の1人でした。
1895年から1945年という50年間の日本統治時代の台湾で生まれ、日本の敗戦で見知らぬ祖国に帰された日本人たち。戦前、台湾で生まれた湾生の日本人は約20万人いたと言われます。
その中には日本人同士で遊んで育った人もいたけど、台湾人、いや当時は別の民族だけど同じ日本人として遊んで育った富永さんのような人もいる。
富永さんの口から語られる思い出はすごく不思議な歴史的重みがあり、また子供の頃に覚えた台湾語を流暢に話すのでびっくりさせられます。
この映画を見ると、かつて日本と台湾が1つだったという歴史が、いたるところに散りばめられているんです。
しかも他人事に聞こえるナレーションではなく、全部当時を知る日本人の口から語られます。
たとえば当時の日本人は普通に学校に入れたけど、台湾人(漢民族や先住民)は成績が良くないと入れなかった。
昔の台湾は意外とたくさん食べ物があって戦時中でも暮らしぶりがよかったけど、戦後はほぼ無一文で帰らねばいけなかった。戦後にすぐ引き上げてから「湾生」と本土で差別され、台湾に戻りたかった、等々。
ぼくらが似ていると思ってる今の台湾と日本はビルやチェーン店、人の服装などのほんの表層だけで、120年前から70年前まで台湾では、同じ「日本人」、「言葉」、そして「国」という意識で暮らしていた事実に映画を通して気付かされます。
しかし戦争で引き裂かれた戻れない特殊な「外国」の故郷・台湾を描いているけれど、ぼくが何度も涙したのは登場人物の誰の人生にもあるドラマでした。
特殊な生い立ちと誰にでも共感できる湾生、それぞれの人生のストーリー
『湾生回家』は不思議な映画です。それは湾生という台湾が故郷の日本人たちを追っているからでしょう。
しかしぼくが台湾と日本という違う国の劇場でこの映画を見てすすり泣く声が泣きやまない理由は、この映画が日本人や台湾人である前に、人間として誰もが共感出来る話が綴られているからだと思うんです。
たとえば冒頭に出てきたおじいさんの富永さんが何度も台湾人の幼馴染の訃報を聞きながら、それでも幼馴染と出会えた時の太陽のような笑顔。
日本人の母親に台湾で捨て子同然に里子に出された片山清子さんは、何度も会いたいと思って日本に尋ねても見つからなかった亡くなった母親から、実は捨てられてないという事実を自分のおかげで知ります。それがわかった時の嬉し涙。
そして台湾から引き上げてくるときに、見えなくなるまで弟と一緒に『ふるさと』を歌ったと語る老婦人、家倉多恵子さんの細い目。
たしかに自分の故郷が違う国になった日本人は今数えるほどしかないないし、こんな苦しい経験をされたのはこの世代の方くらいでしょう。自分の故郷が異国になってしまったなんて経験は、1945年という時代を生きた人にしかわかりません。
でも共感して涙してしまうのは、ぼくらは誰しもが親と友達、故郷を持っているからだと思うんです。
親を思えば他人には抱かない特別な感情が込み上げ、幼い頃の友達と再会すれば一瞬で子供の頃の記憶がよみがえり、故郷の土を踏めば懐かしさがこみ上げてくる。
それがこの人達湾生の方々には、台湾という場所に詰まっている。観る観客の心を揺さぶるのはそんなストーリーがちりばめられているからだとぼくは思うんです。
だからこそ台湾でも日本でも劇場ですすり泣く声が絶えなかったと感じます。
見方を変えれば、違う景色が見えてくる。『湾生回家』はそれを教えてくれるかけがえのない映画
この映画の中である湾生はこんなことを口にします。
台湾なら何度行ってもいいな。ってしょっちゅう言ってるんですけれど、そのくらい好きです。どんなに景色が変わっても。
ぼくは台湾が大好きですが、この先どんなに住んだって、湾生の方々のような重みで「好きだ」と伝えることはできません。
だって湾生の方々にとって、ここ台湾は故郷なのですから。22歳で台湾を初めて訪れたぼくと、この映画に出てくる18歳くらいまでで台湾を去らなければいけなかった人たちでは、思い入れが全然違います。台湾に同じように「好き」という言葉を使っても、そこに乗せる時間の重みの違いがそこには詰まっている。
その湾生の想いが映画を通して伝わってきた時、台湾という場所は今までは全く違う捉え方ができるんじゃないでしょうか?
今まで世界中のどの場所よりも、今の本土から渡った日本人の思い入れが詰まっているのが、ここ台湾なのではないか?そうぼくはこの映画を観た後に思うのです。
台湾に興味ない人も、1回行って満足した人も、そしてぼくのように台湾が大好きな人にも観てほしい。なぜならこの映画には、ぼくら若者世代がどうやっても届かない台湾を見つめる視点があるからです。
歴史とそこに生きた人の想いを知れば、台湾という場所への捉え方も一変します。ぼくも何気なく台湾の街を歩いていて見かける日本統治時代の建物の時代を、映画を頼りに想像しながら台湾が日本だった時代を想像して、この台湾を歩き直してみようと思いました。
最後に
どうでしたでしょうか?
この映画は長々とぼくが語るより、映画の予告編と公開中の映画を観てみてほしいです。公開から2週間弱経ってしまいましたが、ぼくがいくら言葉を尽くしても、書き直しても伝えきれないので、ぜひ予告編と映画を観てみてください。
本当に素晴らしい台湾映画なので、ぜひどうぞ。
ではまた。
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